双撃のブックマーク

個人的なブックマークです。

自宅ドミトリーで中古Macを開く。

「ドミトリー」化した自宅で中古のMacbookを開いている。もう11年も前の太古機である。そんなにも古いMacをまだ持っている自分にも驚くし、それが今でも結構使えることに驚く。

これからしばらく、この太古Macbookをメインにして使っていこうと思っている。勿論ドミトリーに泊まるときにも持っていきたい。

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私の持っているMacBookプロは、以下のようなもの。

Model Name: MacBook Pro

  Model Identifier: MacBookPro1,1

  Processor Name: Intel Core Duo

   Processor Speed: 2 GHz

   Memory: 2 GB

   Bus Speed: 667 MHz

というMacBookで、要するに「初代インテルMac」。OSは10.6.8(SnowLeopard)がインストールされている。

こんな太古機を抱えてスタバをウロついたりもした。(結構重い)

 

このブログを書くのに、この初代インテルMacBookを使おうと思っている。

なぜか最近このMacbookを触りたくてしょうがない。そのMacbookを触るためにこのブログを書くといった方が正確か。

何か伝えたいテーマがあれば、それを柱にするのだが、それもない。スタバで開くにはデカ過ぎる、このMacBookを開いてその時書きたいことや書けることを書くことにする。

このMacに触っているとなぜか安堵感を覚える。特に仕事が上手く行ってないとか、人間関係がコジレているとかは無いのだが、なんだかこの現実に違和感を覚えている(みたいだ)し、そこから逃れたいと思っている(節がある)。その現実への違和感を埋めてくれるのがアップルの製品なのだ。別にWindowsでも変わらないだろうと思ってもみるが、やっぱりそれはダメみたいで、Mac、それも中古のMacに触って(大したことも無い)文章を打っていると、なぜかハッピーになれる。私はそれを「文書セラピー」と呼んでいる。つまり、神経を少し病んでいるヒトが精神科医に自分の思いを吐露し、それで精神の安定を取り戻すように、Macに触れて好き勝手な文章(自分の思いなんかを書く訳でもない)を書くだけで、なんだか安心感っていうか、幸福感を得られるのだ。

自分をハッピーにするのにノートパソコン、イジっていれば良いなんて安上がりではないか。しかも、そういう場を提供してくれるブログサービスが巷には溢れている(良い時代になったものだ。)

「ドミトリー」に泊まることが少なくなって書く材料に事欠いてきたので、これからはこっちを題材にして書いてみよう。なんかブログの趣旨が変わってしまった感あるけれども。まあ、いい。

「自宅ドミトリー」でいく。

このブログ趣味始めてからホントおカネ使わなくなった。もうフーゾク行かなくても全然オッケーになってきた。って言うか、女の子とつるむ事も前ほど望んでない。枯れてきたのかな?これでイイのかな?

ブログ読んだり書いたりすることがこんなに満足心を与えてくれるなんて思ってもいなかった。

昨日だって自宅を「ドミトリー」に見立てて、買ってきた缶ビールと晩御飯食べながらテレビ見て至福だった。

こうなるとおカネたまりそう。月に2~3回行ってたフーゾクの分4万円以上が浮くんだから、これは大きい。

しばらくはこの趣味でいく。

「自宅ドミトリー」という感覚。

最近「ドミトリーハウス」に泊まらなくなったと書いたけど、それは自宅でも「ドミトリー」のように暮らせることがわかってきたから。つまり、自宅を自宅と感じるのではなく、誰かさんのお家に間借りして生活させてもらっているという感覚が持てるようになったのだ。そういう意識を持つことで「住む」こととは、一種の緊張関係をもって過ごせるようになる。そして、それが実は快適な生活に至る道だということもわかってきた。

「自宅」ではないので、その辺に寝転がったり好きにダラダラすることはできない。できるのは自分のベッド内だけである。風呂やトイレも他の人の使用も考えて極力清潔さを保てるように使う。服装だってそう。オシャレじゃなくてもいいから、とにかく「清潔」であることを第一条とする。そういう「他所様のトコロにお邪魔している」という感覚が生活をキリッとしたものにしてくれる。

このキリッとした感覚が無いと、「住む」ということが果てしなくだらし無くなり「住む」ことが意識の俎上に乗ることもなくなり、刺激にも喜びにもならない、つまらないものに堕してしまう。

「自宅ドミトリー」というアイデアを持つことで、常に生活からモノを取り除き、身なりを清潔に保ち、要は環境も自らも(総体としての自己も)常にスッキリさせていこうという決心あるいは習慣がついてくる。これはすごくありがたい。この意識こそがヒトを健康に導き、生活も意識もスッキリ快適にしてくれる根本なのだ。

「ドミトリー日記」

これまで「ドミトリー日記」として書いてきたのだが、最近ドミトリーに泊まらなくなったので、このブログに書かなくなった。って言うか、書きたいこと別にブログを立ち上げていたら総計八つにもなってしまったので、文章が分散してしまい、どれもが開店休業っぽくなってしまったのだ。これはイカンと思って半分の四つを削除した。(それでもまだ多過ぎる。)

しかし、昨年の暮れに始めた「ブログ療法」はかなり効果があって、なにかとお金を使っていたフーゾクにも行かなくなった。スタバなんかに陣取ってヒトの書いたブログを読んだり、自分でブログ書いたりしている方がよっぽど楽しくなってきたのだ。

で、なんでドミトリーに住まなくなったのかというと、何件かドミトリーに泊まってドミトリーハウスがどんな所かわかってきたし、そのミニマルぶりも味わうことができたから、前ほどドミトリーに行きたいということは無くなったから。つまり、「家」っていうよりも、私には「パソコンやガジェットでネットして」「シャワー浴びて」「寝る」所があれば、もう十分だということがわかってきたので、自宅にもそういうことしか求めないようになったら、「自己回復」の場所だと称して置いていた趣味のモノや読みもしないたくさんの本を撤去するようになった。するとどうだ、ドミトリーにいかなくても「自宅」や「実家」でも「ドミトリー的な寛ぎや安らぎ」を感じられるようになったのだ。それで最近は行かなくなった。

フーゾクで大枚はたいてお金使わないようになると、生活もイイ意味で地味になってきた。出費と言えば、カフェに入ったりするぐらい。(でも、毎日のように行ってるので、積もり積もれば結構な額かも。)時に新しいマックブックほしいと思うけど、アップル製品って古くても十分触ってて「楽しい」ので今使ってる太古機でしのいで行けると思う。

今の私の理想はドミトリーハウスに住んで、半ばホームレスのように生活し、持ち物はMacBookだけという状態(実際はムリだけど)。ホームレス芸人のナントカさんとか「いばや通信」のブロガーの方ってどんな毎日送っているんだろう?結構ハードだと思うが、楽しそうだ。

ホームレススターなる人々。

さいとうてつおの「悩み多き人よ」を聴きながらこれを書いている。イィな、この曲。

最近「ホームレス」をウリにして逞しく生活しているヒトが流行っている。「いばや通信」の橋爪圭吾さん、一日50円で自分を売る元吉本のホームレス古谷さんとか。ホームレスと言ってもネットを使って自分のミニマムな状況をウリに出して、それを面白がってくれるヒトや話を聞きたがってくれるヒトのネットワークに身を委ねて「他力」で生きるというもの。確かにおもしろい。そんなことが可能なんだろうかって思う。でも、どうやら結構楽しくやってるみたいだし、ちょっと話でも聞かせてもらうか、って感じになってくる。潜在的に自分もそういうコトをしてみたいというヒトの代理でダイナミックに生きている感じかな。

自分はそこまで出来ないけど、「つもり」ホームレスになって生活してみたらどんな具合だろう。

前述のような「ホームレス」スターの人々の必需品って結局スマホとかタブレットとかネットに繋がる手段ではないのか。常に自分を支えてくれる潜在的なファンたちに発信し続けていなきゃなんないんだから、ネットと繋がる手段だけはリストラ出来ないと思う。面白いなぁ、やっぱり。家よりも仕事よりもネットが自分のライフラインとして重要なんだから。

 

久しぶりin Kyoto。

久しぶりに京都に来た。今年になって未だドミトリーには泊まっていない。出来たら泊まりたいドミトリーはたくさんあるんだけど。その筆頭が「泊まれる本屋」Book and Bed。本屋とホステルとが合体したような所らしい。でも、支払いはカードのみってことで現金主義の私には「え?なんで?」って感じ。dayユース(午後1:00~5:00)ならICOCAも使えるらしいから、それで行ってみるか。

 

 

ドミトリーは ノマドの延長。

一時「ノマド」っていうのが流行った。つまり、オフィスなんて言うものを一切持たず、スマホと街のカフェだけを頼りに仕事してしまう、っていう新しい働き方だった。実際やってみると、労働環境としての劣悪さに閉口することになると思うが、そもそもは自分で独立して何らかのビジネスをスタートアップするヒトが、ちょっと前ならそれなりに会社インフラ(スモールオフィス、電話、ファックス、デスクなど)に投資しなければならないのが、今は情報機器の進歩とネットやカフェなど街中インフラの充実で、極端に言えばスマホ一つで始められるという主張だった。それがアイデアとしてもすごく面白いので「ノマド」として世間にももてはやされたんだろう。

ノマド」の発想が画期的だったのは、ホントに必要なものを選んで行けば、ビジネスだって数点のアイテムでできることを看破したところだった。「オフィス」という必須のものも、カフェなんていう都市なら何処にでもあるもので代用できるんだと言い切ってしまう思い切りが新鮮だった。(実際にはオフィスがないの信用してもらえずビジネスとして成り立たないってことも多いと思うけど)

こういう思い切りを仕事から生活そのものに移行させたのがミニマリズムだと思う。「ノマド」で最低限の仕事環境を求めたように、「住む」ということから不要なものを除いていったら、見えてくるものが沢山あったのだ。ドミトリー生活は、さらに「住む」場所さえ街中のインフラに頼ろうとしている。ちょっと前なら「ホームレス」とか「ドヤ街」住まいとされ、嘲笑か憐れみの対象となっただろう。ところが今はエクストリームではあるけれども、一つのライフスタイルとして見てもらえると思う。読者層的に言うと、かつての「ノマド」志向のヒトと現在の「ミニマリズム」志向のヒトはかなり重なっていると思うのだが。

しかし、決定的に違うのは「ノマド」は環境やアイテムを精選し、シンプル化するのはあくまでもビジネス成功の手段であって当面の方便なのに対して、「ミニマリズム」はシンプル化が半ば目的そのものになっている。つまり、生活のシンプリシティを維持し、さらにその洗練度を上げることを目指してるのだ。なぜシンプル化が目的化するのかと言うと、ほれによって得られる至福感というものをミニマリストは知っているからだろう。生活は軽やかになり、ココロは満たされて、まるで信仰を得たヒトのようになれるからだろう。多分。