双撃のブックマーク

個人的なブックマークです。

"gori me"というサイト

Macを扱ったブログで最も有名なのは「gori me」ではないか。情報量が半端無い。よくあれだけのものをつくれるなぁと思う。その情報収集力/編集力/デザイン力などチームでやっているの?っていうぐらい、なんでもかんでも高いレベルでこなしている。

ふだん使っている最新のMacBook Pro 15"のキーが壊れたとかで、替わりに12インチのC専MacBookをメイン機に使ったレポートが載っていた。それを見ると、一日に記事を何本も書いている。取材会場で、カフェで、自宅でとあらゆる場所にMacを持ち込んでいる。これがいつもは15インチのMacBookなんだから、体力的にもこのブロガーはかなりの強者だ。

私的には雑誌の「Mac Fan」とこのサイトがあれば、Macの情報はもう十分だ。

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15”MacBooker再発見。

一応私は,自分の中ではミニマリストを目指している。特にG4Cubeは私のミニマリズムのシンボルだ。(もう売り払ったので「シンボルだった」)

イメージ的には、某陶芸家の住んでいる古い古いドイツ式アパートメントみたいに、古いけどキレイに手入れされている部屋の中に、少し大きめのテーブルがある。そこにはG4Cubeの四角い筐体だけがあって、他にはなんにも無い。そういう感じなのだ。

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しかし現実を見ると、もうG4Cubeは手元に無いし、私の身の周りは相変わらずゴチャゴチャしまくりだ。それをナントカ克服したいと常日頃思っているが、実際はそうはいなかい。つまり、私は根っからの散らかしストであり、マキシマリストなのだ。

でも、アルミの筐体のMacBookを触っていると、なんとか「スッキリした生活」を目指そうという気になってくる。

実際、私の触っているMacBookはもう10年以上も前の代物であり、OSが更新できない故ブラウザも古いバージョンを使い続けている「太古機」だ。

しかし、このMacBookを触っていると、ホント快適な気分になってくる。もう売り払ってしまおうと思ってたのだが、オークションに出すためにキレイに掃除して、データを抜き出したら、なんだか新しい機種にも負けないような「目新しさ」を感じた。もっとも最新機種に触ったことも無いのだが。

とにかくちょっとクリーニングするだけで、新しい機種を導入したのと同じような気分になれるなんて、ちょっと不思議な気がした。(恐らくそんなのは私だけだろうが。)

それでこれからはどんどん、15インチMacを外にも持ち出して行こうと思っている。理由はカフェに寄ったときもMacに触っていたいから。なんて馬鹿げた理由だと思う。ガキだ。お宅だ。まともな社会人の発想では無い。だけど、いい、私はそれで。

 

 

Xperia A SO-04Eのスペックと格安SIMでの使い方とテザリングの設定

http://kakuyasu-sim.jp/xperia-a-so-04e

Xperia A SO-04Eのスペックと格安SIMでの使い方とテザリングの設定

本来ブログを使ってサイトで見つけた記事の共有なんてしない(するとしたらブックマークかTwitterだろう)のだが、ブログでもそういうことができるのかと今更ながら思ってやってみた。
とすると、普段使いのブログっていうのを用意して、そこでメモ書いたり、ブログの下書きしたり、ブックマークもそこでドンドンしたり、ネット生活のプラットフォームとして使えそうな気がする。早速そういうのやってみようかな。

オブジェとしてのMacと「ハルキムラカミ」。

私がウインドウズではなくマックを望むのはマックには「物語性」があるからである。

モノでありながらモノとしてのコンテクストを超えてヒトやヒトの生を彩るもの、あるいは意味付けるものを「オブジェクト」という。なので、ウインド ウズはノートパソコンとしての機能には何の問題は無いが、オブジェクトとしての存在感はほとんど無い。マックを求めているヒトビトは、その自覚の有無に関 わらず、マックが自分の毎日に「物語性」を与えてくれることを知っている。それを単に「マックを持つと気分がイイ」と感じたり、マックというオブジェを多 くコレクションしたり、反応はそれぞれであるけれど。

でも、一番わかりやすいのは「スタバでMacBook開いてドヤ顔する」っていうやつである。こんなの誇張された冗談だろうと思っていたらとんでもない。結構そういうヒトいるいる。でも、これが「マクドで一昔前のネットブック開 いている」っていうのはどうだろう。そこには何の物語も生まれていないので、オシャレさも面白さも気恥ずかしさも生まれてこない。やっていること自体は変 わらないのに、当の本人の意識も周りの見る目も全く違う。「オブジェ」が存在することで確かに何らかの「物語」が共有されている。

だから、これが何もマックである必要も無い。昨日発売されたばかりのムラカミハルキの新作の本でもいいのだ。つまり、スタバでMacBookを開いていても村上春樹の本を開いていても、その「物語」の在り方はほとんど変わらない。当の本人の気分だって変わらないと思う。マックと村上春樹の本はまったく別種のモノでありながら、「オブジェ」としての意味合いはほとんど変わらない。

だから、マックを持ち歩ことに疲れてきたヒトは、このまま本屋にいって村上春樹の新刊本を買うべきだと思う。で、実際やってみて、その気分を味わってみてほしい。

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”ビッグブラザー” Appleをたたえる。

昔使ってたiMacG5のことを思い出した。

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今から10年以上前のこと。

この頃のマックは急速にミニマリズム(当時はそんな言葉も無い)的なデザインに傾倒していくハジメだったと思う。「コンピュータはどこへいったのだろう?」とか、そういうコピーだったと思うのだが、iMacG5は単に新しいタイプのコンピュータが現れたというだけではなく、インテリアやライフスタイルに影響を及ぼすコンピュータの出現でもあった。オシャレなコンピュータユーザーがマックというコンピュータブランドを選ぶのではない、マックというコンピュータがそのデザインに沿ったユーザーやライフスタイル、あるいはユーザーの意識さえも規定してしまう事態になったのだ。コンピュータがユーザーを選んだり、ユーザーを自らのデザインの方向に規定し直すのだ。

ユーザーはマックというコンピュータにリ・デザインされることで、自己たりえるヒトになっていく。それは、ある意味主従が逆転している、かなりアブナい事態なのだが、ユーザーにその危機感は全く無い。今流行の「スタバでMacBook開いてドヤ顔している」人々はそれにドップリはまってしまった人々である。(私もぜひそうしてみたい)

マックには元々そういう魅力っていうか危険性があったのだが、今のデザインストリームに乗ることで、完全に大衆性を獲得した。マックはコンピュータからファッションやライフスタイルを規定するアイテムになったのだ。

かつてアップルコンピュータは、「IBM」をジョージ・オーウェルの「1984年」に登場する「ビッグブラザー」に見立てて、自らをその「支配」に抗するヒロインに見立てたが、今ではアップルが人々の意識を支配するヘロインと化している。

しかし、それがなんだと言うのだろう。そこに身を委ねたとしても失われるものは少ない。むしろ、その方が朗らかに生きられるだろう。アップルコンピュータがデザインしてくれる自意識と価値観の中で生きるのだ。旧ソ連の映像の天才タルコフスキーの映画「ソラリス」では、特殊な生命体であるソラリスという惑星が造り出す幻影に、宇宙船のクルーたちが囚われて、その中で「幸せに生きて」いく姿があったが、まさにそれと同じではないか。

もう一度言うが、我々はマックを、自分を演出するファッションアイテムとして用いているのではない。空虚になった自分を満たすために、アップルのもたらした啓示(マック)を受け取り、それにすがって生きているのだ。マックは我々の「司令塔」なのだ。

アップルの「信者」はすでにそのことを十分「解って」いる。これは立派な「宗教」であり「支配」なのだと。そして、自分たちはその支配を喜んで受け入れていることを。その信仰の中では「スティーブ・ジョブズ」さえも「啓示」を表す「シンボル」の一つでしかない。

私はアップルの信者にはなれないが、アップルの伝えるライフスタイルやデザイン性を好んで受け入れたい。そうする方が快適で、スッキリするからだ。モヤモヤしたものを抱えて、そのイライラからロクでも無いものに囚われるよりはずっと健康的だからだ。

産経新聞 宮家邦彦氏のWorld Watch は、面白い。

今読んでいるのは平成29年3月2日付けの産経新聞。題字に目が止まったので家から持ってきて、今スタバで読んでいる。そのお題とは「トランプ政権の永久革命」。

はっきり言って産経新聞はスキじゃなかった。如何にも大資本と保守政治家のお抱え新聞って感じで。でも、今回の記事はホント、他の新聞では読めないステキな記事だった。何が素晴らしいのかというと、トランプ政権のブレーン(イデオローグと言った方が正しいのかな)のバノン氏を取り上げることで、トランプ政権の基本的なスタンスをはっきりと分かりやすく教えてくれている。

多くの新聞はトランプ政権のイデオロギー的側面についてはほとんど見ようとはしない。トランプ氏がたまたま勢いで大統領になり、その取り巻きは偏狭でちょっとイカれた連中だとバカにしきっているからだ。でも、この東大出身で外務省経験者の宮家氏は違う。バノン氏が単なるバカ出ないことをハッキリ見抜き、その動向を仔細に見ていこうとしているからだ。

彼の書いた記事を読んで初めて私が現在進行中の政治潮流(私はそれを「世界バカ革命」と呼んでいる。)が、まさにバノン氏が意図したものだとわかった。バノン氏は単なる偏狭なイデオローグ(大抵はそういう書かれ方をしている)ではない。現在の世界の情勢と政治潮流を冷静に見つめ、それについて沈思を繰り返している。バカなのはこれまでのリベラル潮流(カラーとしては「自由」と礼節を重んじ、その陰で、自由のための戦いと称して国家の一つや二つを破壊することなど屁とも思っていない、高度にリテラシーを高めた連中の支配)を「進歩的」だと信じて疑わない大手メディアの方なのかもしれない。そういう価値の転倒を余儀なくされるほど、氏の記事は「革命的」だった。私には。