「先生はえらい」読者書評001
形式: Kindle版
内田氏のこの著作『先生はえらい』を自分なりに解釈すると、学ぶ側(学生、生徒)は、
「自分は何を知らないか、できないか」を適切に言うことができない状態を適切だとしている。
そして、先生は、その「何か=知識」を教えてくれるものではなく、
「スイッチ=媒介装置」の役割をすることが適切だと、
つまり、教師は、知識を教授する、しないは、あまり学ぶ側にとって真に必要とせず
学ぶ側が何を知りたいかを自己に問いかけるような存在になるべきだということです。
学ぶ側が、あっ自分自身は、こういう「知」を知りたいんだ、勉強したいんだと、
心の底から思える状態ではあれば、教師の役目は半ば終了し、
学ぶ側は、以後、自発的に学ぶ。
今、学校の授業はシラバス方式(いつ、何を、どう教えるを開示したもの)になっているらしい。
これは、先生を知識提供サービス者とし、勉強する側は消費者とする、
まさに、ビジネスの論理で教育を考えている。
これをやっちゃおしまいよという言葉がありますが、
内田氏曰く、お終いなのでしょう。
つまり今の状況は、学ぶ側にメリットがあるように思えるが
(だって知識を効率的に分かり易く教えてくれるんだから)、
しかし、実はあまりメリットがない。
そもそも、教育に対してメリット、デメリットを考えしまうこと自体が、
ナンセンスなのだろうと思う。
結局は知識の過多で点数をつけられるから、仕方ないかもしれないが、
これでは、今も昔も大量の勉強嫌い(点数をつけられ、順番をつけられることが嫌だと思うこと)
を生んでしまうように思う。
こういう社会的損失をしっかり把握したほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、現に、これではいかん!と思って動き出している先生は多数いる。
ビジネスの論理に負けないで、是非、頑張っていただきたい。
「先生はえらい」著書から一言
著者からひとこと
この本は「ちくまプリマー新書」という中高生対象の新しい新書シリーズの一冊として書かれたものです。
「いまどきの中高生に何か言いたいことがありますか?」と筑摩の編集者に尋ねられたときに、「『先生はえらい』かな・・」とぽつりと答えたのが、この本のきっかけになりました。
タイトルからおわかりいただけるようにこれは師弟論です。
教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。
というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているからです。
「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されています。
先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々も、それなりに切ない事情があって語り出されているわけですから、お気持ちもわからないではありませんが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが本書の趣旨であります。
私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。
そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。
私が行ったのはいわば「えらい」の構造分析です。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」
という分析を試みたのです。
これなら私も理論的に熟知しています。
というのは、私がこの数年集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからです。
この方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのでした(ということに気づかれているかたはあまりいないようですが、そうなんですよ、これが)。
私も最近まで気づきませんでしたから、偉そうなことは言えませんが。
ともあれ、レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。
「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものです。ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつですね。
「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆきませんが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂きます。
内田 樹
内容(「BOOK」データベースより)
「先生はえらい」のです。たとえ何ひとつ教えてくれなくても。「えらい」と思いさえすれば学びの道はひらかれる。だれもが幸福になれる、常識やぶりの教育論。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
内田/樹
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程(仏文専攻)中退。神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門は、フランス現代思想、映画論、武道論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
内田樹「先生はえらい」
内田氏のこの著作『先生はえらい』を自分なりに解釈すると、学ぶ側(学生、生徒)は、
「自分は何を知らないか、できないか」を適切に言うことができない状態を適切だとしている。
そして、先生は、その「何か=知識」を教えてくれるものではなく、
「スイッチ=媒介装置」の役割をすることが適切だと、
つまり、教師は、知識を教授する、しないは、あまり学ぶ側にとって真に必要とせず
学ぶ側が何を知りたいかを自己に問いかけるような存在になるべきだということです。
学ぶ側が、あっ自分自身は、こういう「知」を知りたいんだ、勉強したいんだと、
心の底から思える状態ではあれば、教師の役目は半ば終了し、
学ぶ側は、以後、自発的に学ぶ。
今、学校の授業はシラバス方式(いつ、何を、どう教えるを開示したもの)になっているらしい。
これは、先生を知識提供サービス者とし、勉強する側は消費者とする、
まさに、ビジネスの論理で教育を考えている。
これをやっちゃおしまいよという言葉がありますが、
内田氏曰く、お終いなのでしょう。
つまり今の状況は、学ぶ側にメリットがあるように思えるが
(だって知識を効率的に分かり易く教えてくれるんだから)、
しかし、実はあまりメリットがない。
そもそも、教育に対してメリット、デメリットを考えしまうこと自体が、
ナンセンスなのだろうと思う。
結局は知識の過多で点数をつけられるから、仕方ないかもしれないが、
これでは、今も昔も大量の勉強嫌い(点数をつけられ、順番をつけられることが嫌だと思うこと)
を生んでしまうように思う。
こういう社会的損失をしっかり把握したほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、現に、これではいかん!と思って動き出している先生は多数いる。
ビジネスの論理に負けないで、是非、頑張っていただきたい。