ドミトリー日記。

わたくし「総撃ノマド」の関心を綴ります。ドミトリーを経営しているわけではありません。

”ビッグブラザー” Appleをたたえる。

昔使ってたiMacG5のことを思い出した。

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今から10年以上前のこと。

この頃のマックは急速にミニマリズム(当時はそんな言葉も無い)的なデザインに傾倒していくハジメだったと思う。「コンピュータはどこへいったのだろう?」とか、そういうコピーだったと思うのだが、iMacG5は単に新しいタイプのコンピュータが現れたというだけではなく、インテリアやライフスタイルに影響を及ぼすコンピュータの出現でもあった。オシャレなコンピュータユーザーがマックというコンピュータブランドを選ぶのではない、マックというコンピュータがそのデザインに沿ったユーザーやライフスタイル、あるいはユーザーの意識さえも規定してしまう事態になったのだ。コンピュータがユーザーを選んだり、ユーザーを自らのデザインの方向に規定し直すのだ。

ユーザーはマックというコンピュータにリ・デザインされることで、自己たりえるヒトになっていく。それは、ある意味主従が逆転している、かなりアブナい事態なのだが、ユーザーにその危機感は全く無い。今流行の「スタバでMacBook開いてドヤ顔している」人々はそれにドップリはまってしまった人々である。(私もぜひそうしてみたい)

マックには元々そういう魅力っていうか危険性があったのだが、今のデザインストリームに乗ることで、完全に大衆性を獲得した。マックはコンピュータからファッションやライフスタイルを規定するアイテムになったのだ。

かつてアップルコンピュータは、「IBM」をジョージ・オーウェルの「1984年」に登場する「ビッグブラザー」に見立てて、自らをその「支配」に抗するヒロインに見立てたが、今ではアップルが人々の意識を支配するヘロインと化している。

しかし、それがなんだと言うのだろう。そこに身を委ねたとしても失われるものは少ない。むしろ、その方が朗らかに生きられるだろう。アップルコンピュータがデザインしてくれる自意識と価値観の中で生きるのだ。旧ソ連の映像の天才タルコフスキーの映画「ソラリス」では、特殊な生命体であるソラリスという惑星が造り出す幻影に、宇宙船のクルーたちが囚われて、その中で「幸せに生きて」いく姿があったが、まさにそれと同じではないか。

もう一度言うが、我々はマックを、自分を演出するファッションアイテムとして用いているのではない。空虚になった自分を満たすために、アップルのもたらした啓示(マック)を受け取り、それにすがって生きているのだ。マックは我々の「司令塔」なのだ。

アップルの「信者」はすでにそのことを十分「解って」いる。これは立派な「宗教」であり「支配」なのだと。そして、自分たちはその支配を喜んで受け入れていることを。その信仰の中では「スティーブ・ジョブズ」さえも「啓示」を表す「シンボル」の一つでしかない。

私はアップルの信者にはなれないが、アップルの伝えるライフスタイルやデザイン性を好んで受け入れたい。そうする方が快適で、スッキリするからだ。モヤモヤしたものを抱えて、そのイライラからロクでも無いものに囚われるよりはずっと健康的だからだ。