双撃のブックマーク

個人的なブックマークです。

「ドミトリー生活」で至福にいたる。(誤)

「ドミトリー生活」すると、人生の一コマ一コマが楽しいものになってくる。なんでかはよく分からないのだが、多分「ドミトリー生活」のもたらす旅行気分が脳を活性化させ、脳を覚醒させたり、幸福物質出させたりするからだと勝手に思ってる。今だって、新聞でピケティのコラム読んだり、iTunesでケニーG聴いたりしてるんだけど、それらが今までに無く快適に感じられるのだ。そして、手にはvido双撃四核という7000円ほどの安ものpadを持っている。こいつの幸福感貢献度もかなり高い。これだけのモノ(具体的には安もの中華タブレット、新聞、ちょっとしたテーブルに、あと飲物)で幸福になれるなら、そうした荷物抱えて日本ドミトリー巡りしたら、さぞ幸せだろう。ON THE MOVEって感覚が私の場合、何よりも幸福の源泉なんだと思った。自分なりの幸福の泉を見つけられて良かったよ。

ビンボーくさく行きたい。

   今もネットでドミトリーハウスやシェアハウスのことググっては見てた。やっぱりイイよね、ドミトリーハウスは。住んでみたい、暮らしてみたい。

   ドミトリー生活は、優雅さに欠けるが、これも又ミニマリズムの一形態だと思う。(ミニマリストが怒るか。)

   自由になるのはベッドだけ。シャワーやキッチンは勿論、トイレに行くことさえままならないのだ。でも、そういう生活をするからこそ見えてくるものが一杯あるし、むしろ「邸宅」構えて住む方がツマらないって私は思っている。

    簡単に言えば、「ドミトリー生活」の良さは、「緊張感のある」生活であり、しかも「ムダな見栄やカッコつけから解放された」生活だということがキモではないだろうか。

 

小汚い所で清潔に生きる。

「ドミトリー生活」すると、生活に、あるいは自分の人生に何が必須で何がそうでないかが分かってくる。ここで言う必須というのは、生きる上で最低限の条件という意味ではなく、毎日それなりに快適に生きるためには何が必要かということだ。したがって、音楽なんかはかなり上位に入ってくる。あるいは「ドミトリー生活」に合ったモノ、合った価値観というのも芽生えてくる。例えば私はiPhoneなどのApple製品のファンだが、「ドミトリー生活」始めてからは、何となくandroidの中華タブレットで事済まそうとしていることが多い。Appleのデキた成り立ちが「ドミトリー生活」の文脈にマッチしないのだ。ドミトリー生活のミニマム感が、iPhoneなどの贅沢オーラに合わないのだ。それよりもドミトリーのベッドの上なら、中華タブレットをゴシゴシやってる方がずっと合ってる。1機7000円もしない中華タブレットでブログ書いて、音楽聴いて、時により映画見て、ということをしてるのが風景的に合ってると思う。

我が家を「ドミトリー」扱いする。

 現在LDK(リビングダイニングキッチン)の一角に陣取っている。そこでお湯を沸かし、紅茶を入れ(氷は入れないけど)、一昨日買った「森茉莉」の文庫本をめくる。至福だ。ついこの前までモリマリなんて人知らなかったのに、すっかり気に入っている。この吸引力/毒性、スゴいと思う。

 ついこの前までKindle買って、それで専ら「読書」しようと思っていたけど、もうそんな無粋な端末買うつもりは無い。古本屋で古本買って、それを持って歩いて自由に読み込むっていうのを知って、もう自分のスタイルが定まったと思っている。ホント、あの日にあの辺ウロついて、あの古本屋入って「森茉莉」の本選んだ巡り合わせに感謝している。

 そうやって自分の思ってること、考えていることに容易に浸ることができるのも「我が家」のいいところだろうが、そこは思い直して「いやいや、ここはドミトリーなんだ。」と思い直す。そうすると、ドミトリーハウスの主人にでもなったかのような気分になって、やり残した掃除や洗いモノは無いか、思いを馳せるようになる。自分の思っていることに浸るなどというのは、「ドミトリー」的ではないのだ。それでもドミトリーを清潔に保ち、やるべきことをやってしまった後はそういう贅沢も許されるだろう。この感覚がこれまで「ドミ」を知らなかった私に欠けていたものであり、これから空想上でも実際にも「ドミトリー」に住む私が持つべき感覚なのである。

 

古本屋で見つけた本を読む。

一昨日、中ノ島の古い建物の横を向けてコンビニを探しながら歩いていた。

 その日は何時になく「美しい日」だった。ローケーションも良ければ日和もいい、申し分のない一日だった。

 早めの昼食をビルの中で済ませて、それからスマホやらルーターやらの電源を確保するためにマクドナルドに行った。すでにお昼に贅沢(風)なチーズハンバーガーとポテト、それに紅茶を食べていたので、マクドではコーヒーのみ。そこでお気に入りのインチキくさい中華タブレットでブログしていた。

 しかし、前からわかってたことだけど、マクドって煩い。煩すぎる。注文を受けるオバサンやネーチャン(クルーというのか)たちの声の出し方がうるさい。それに厨房から絶えず電子音が聞こえてきてうるさい。で、静けさを求めて川沿いに出ることにした。(マクドの電源は意図的に電圧を下げてあるのか、電気サプライ(充電)はちっとも進んでいなかったけど。)

 打って変わって外は空気が淀んでいないし、シャンとしたオーラが漂っていた。その川沿いに川を見ながらコーヒー飲むのにピッタリのお店があることを知っていたので、今度はそこに入り、紅茶とショコラケーキのセットを頼んだ。

 こんなふうにして秋の良い日を楽しみながら、ちょっと最近無かったくらいイイ時間を楽しんだんだけど、まだおやつの時間だというのにビールが欲しくなってきた。中ノ島の中にビールと花壇を楽しめる椅子とテーブルを提供するお店があるのだが、人は誰もいなかった。それで前に来た時に寄ったことのあるファミマを思い出して、そこに行ってビールにありつこうと思った。このファミマの二階には広いイートインがあるはずだ。早速Googleマップで探してみると、あった、あった、すぐに先のところだ。

 歩いて行くと確かに見覚えのある景色だ。ファミマもあった。という時、その手前の小さな雑居ビルの1階を占めている古本屋に気づいた。って言うか、その店先で初老のオジサンが本を見ていたのだ。それがなんだか気になって自分もその店に入ってみることにした。店先には50円100円で売られている文庫本もあった。

 中はかなり狭い。店舗の絶対的な面積が小さいのに、本だけは(それもかなり知的な本や専門書)山ほどつまっていた。私はなぜか一冊ここで文庫本でも買っていこうと心に決めていた。コンビニのイートインでビールを楽しみながら、その文庫本でも雑に持って読んでやろうと思っていた。そうして本を物色していて見つけたのが、このちくま文庫森茉莉の本「貧乏サヴァラン」だったのだ。普段本屋に入って新しい本を買うとのなら、こんな本を選んだりしない。どうせ古本なんだから、ちょっと目新しい感じのしかも知的な本を買ってみようと目論んでいた。まだ読んでいる途中だけど、いい本に出会ったと思っている。と同時に古本屋で本を選ぶ、ってとってもワクワクするエキサイティングなことなんだって知った。しばらくこの界隈とこの古本屋通いをすると思う。それくらい私には素敵な体験だったのだ。

 森茉莉の本だが、私はかなり気に入っている。この文章自身かなり前に書かれたものだと思うが、何度でも読める優れた文章だ。ただし、この筆者の本はハッキリ言って「鼻持ちならないブルジョア的個人の自惚れ」の書であり、「似ても焼いても喰えないアクの強さ」が全編に貫かれていてギスギスしている。しかし、それでも文章そのものは華麗であり、読んだものを離さない魅力を湛えている。

 こんな文章は決してネットでは出会うことはできない。(ただし森茉莉のことを書いているブログは総じて質の高い文章で書かれていた。)古本屋だからこそ選んだ本で、本だからこそ出会える文章を摂取することができた。この経験は私にはかなり衝撃的で、私はこれまでの下らないスマホ生活から遠ざかることになるだろう。知的にはもっとまともな「食事」ができるようになっていくだろうし、そういう観点で己を見つめることもできるようになるだろう。ちょっとした「転換点」だったのだ。

 

「ドミトリーハウス」に泊まると生活を愛するようになる。

最近立て続けにドミトリーハウスに泊まっている。一泊1500円〜3000円。自分のスペースはあてがわれたベッドしかない。シャワー(湯船は無いか、使えない。)、トイレ、キッチン、リビングなど寝るところ以外は全て共有となる。ちょっと前の自分なら泊まることを躊躇したかもしれないが、今は好んで毎週のように泊まり歩いている。なぜ、そんなことをするのか?簡単に言えば「楽しい」からだ。そして、自分の生活に「張り」が出てくるからだ。

 ドミトリーハウスに泊まると、何かと不便を感じる。何をするにも「さあ、やるぞ」って感じで決意して取りかからなければならない。しかし、その不便さが退屈な日常をちょっとした旅行気分に変えてくれる。歯を磨くこと、シャワーを浴びること、トイレで用を足すこと、そういったことを意識して行うようになると、それがちょっとした「体験」になるのだ。その感覚で普段の自分の生活を振り返れるようにもなる。すると、自分が「物足りない」と思っていた部屋や生活が大変「満たされた」「贅沢な」ものとして映るようになるのだ。

 自分の部屋なら、自分が寝る場所はしっかり確保されているし、それを邪魔するものも無い。ベッドサイドで明かりを点けたり、ラジオを聴いたりするのも自由だ。でも、ドミトリーハウスでそんなことを遠慮無しにしようものなら、たちまち同室の者の顰蹙(ひんしゅく)を買うことになるだろう。

 リビングで何を食べたり、パソコンやスマホを触ったりするのも、陽光に当たりながら、それなりに広いテーブルで自由にしていられる。それだってドミトリーのリビングなら、常に他者との譲り合いになる。

 それでドミトリーでの生活がこの上なく煩わしいのかというと、決してそんなことはない。結構それでイケてしまう自分に驚く。「なんだ、それで良かったんだ」と気づかされる。この「気づき」が私の生活環境や暮らしそのものをリフレッシュしてくれるのだ。それで最近思ったのは、「できたら自分一人でシェアハウスに住んでみたい。でも、それは実際のところ難しいから、たまにドミトリーハウスに泊まったりして、その刺激だけでも味わっていく。さらに毎日の自分の生活も、自分の家を一種の「シェアハウス」だと思って、そのつもり、その感覚で生活してみる。」ということだ。別に何が変わったわけでもないのに、なんだかワクワクしてくる。そのワクワクを記録しようと思って始めたのが、この「ドミトリー日記」なのだ。

 いわば「ドミトリー」という虚構をリアルの中に持ち込んで、生活を楽しもう、そして、それを少し記録しようというのがこのブログの趣旨となる。それでこのブログを「ドミトリー日記」と名付けたのだ。

今日買った本「貧乏サヴァラン」(森茉莉) 筑摩書房 230円

今日たまたま入った古本屋で選んだ文庫本が、この「貧乏サヴァラン」という本である。著者の'モリマリ'って、今風の女性エッセイストなのか?って思ってたら、文豪森鴎外の娘だという。既に30年ほど前に亡くなっている。「サヴァラン」というのはフランスの焼き菓子だが、ブリア・サヴァランは食通で有名なフランスの法律家政治家で、この本の題はそっちを指しているらしい。フランス革命からナポレオンの執政政府の時代というフランスの激動の時代を生きながら、「美味礼賛」(食通の生理学)などという享楽的な本を残している。かなりのスノッブだったのだろう。それと自分を重ねて書いているのだから、この森茉莉なる人物もかなりの高等遊民だったのだと思う。まぁ、フツーならそんな本買わない。(現代的な問題を扱った新書か没後20周年の星野道夫の本でも買ってたと思う) でも、なんか目新しい刺激が欲しくて目についた本がこの本だったという訳だ。考えてみればたった260円でそういう本が(あるいはそういう世界が)手に入るなんて安いもんだ。ちよっとしばらく、これから電車の中でその本に浸ってみよう。

  本の内容とは全然関係ないけど、古本触って思うのは、本が雑に扱えるっていい。新しい本は気分のいいモノだが、それは新品の「モノ」としてであって、本としてではない。頁を折ったり、雑に持ったり、必要なら何かカキコんだり古本なら何でもありだ。それが私の「読書熱」を高めてくれる。そういうことは前からわかっていたはずなんだが、なんで今頃意識するようになったんだろう?あの古本屋のおかげかな?