双撃のブックマーク

個人的なブックマークです。

久しぶりin Kyoto。

久しぶりに京都に来た。今年になって未だドミトリーには泊まっていない。出来たら泊まりたいドミトリーはたくさんあるんだけど。その筆頭が「泊まれる本屋」Book and Bed。本屋とホステルとが合体したような所らしい。でも、支払いはカードのみってことで現金主義の私には「え?なんで?」って感じ。dayユース(午後1:00~5:00)ならICOCAも使えるらしいから、それで行ってみるか。

 

 

ドミトリーは ノマドの延長。

一時「ノマド」っていうのが流行った。つまり、オフィスなんて言うものを一切持たず、スマホと街のカフェだけを頼りに仕事してしまう、っていう新しい働き方だった。実際やってみると、労働環境としての劣悪さに閉口することになると思うが、そもそもは自分で独立して何らかのビジネスをスタートアップするヒトが、ちょっと前ならそれなりに会社インフラ(スモールオフィス、電話、ファックス、デスクなど)に投資しなければならないのが、今は情報機器の進歩とネットやカフェなど街中インフラの充実で、極端に言えばスマホ一つで始められるという主張だった。それがアイデアとしてもすごく面白いので「ノマド」として世間にももてはやされたんだろう。

ノマド」の発想が画期的だったのは、ホントに必要なものを選んで行けば、ビジネスだって数点のアイテムでできることを看破したところだった。「オフィス」という必須のものも、カフェなんていう都市なら何処にでもあるもので代用できるんだと言い切ってしまう思い切りが新鮮だった。(実際にはオフィスがないの信用してもらえずビジネスとして成り立たないってことも多いと思うけど)

こういう思い切りを仕事から生活そのものに移行させたのがミニマリズムだと思う。「ノマド」で最低限の仕事環境を求めたように、「住む」ということから不要なものを除いていったら、見えてくるものが沢山あったのだ。ドミトリー生活は、さらに「住む」場所さえ街中のインフラに頼ろうとしている。ちょっと前なら「ホームレス」とか「ドヤ街」住まいとされ、嘲笑か憐れみの対象となっただろう。ところが今はエクストリームではあるけれども、一つのライフスタイルとして見てもらえると思う。読者層的に言うと、かつての「ノマド」志向のヒトと現在の「ミニマリズム」志向のヒトはかなり重なっていると思うのだが。

しかし、決定的に違うのは「ノマド」は環境やアイテムを精選し、シンプル化するのはあくまでもビジネス成功の手段であって当面の方便なのに対して、「ミニマリズム」はシンプル化が半ば目的そのものになっている。つまり、生活のシンプリシティを維持し、さらにその洗練度を上げることを目指してるのだ。なぜシンプル化が目的化するのかと言うと、ほれによって得られる至福感というものをミニマリストは知っているからだろう。生活は軽やかになり、ココロは満たされて、まるで信仰を得たヒトのようになれるからだろう。多分。

お金の価値を見失う。

このブログを始めたのは自分がお金をつぎ込んでいるフーゾクから脱却するためだと前にも書いたけど、確かにフーゾクはオカネのかかるリリーフ(慰め)だ。私の場合は1回あたり1万5000円かかる。でも、自分が煮詰まってしまってどうにもならない時(又そういう時が結構ある)、それだけ出してでもイイと思えてしまう。でも、冷静になって考えれば1万5000円っておカネはかなり力強いパワーになる。1泊1500円のドミトリーなら、10日泊まれるし、私がよくやる300円マクドメニュー(ハンバーガー✖2とポテトのSを単品で頼む)なら50食もイケてしまう。そこまで全てをマクドとか食べ物に遣わなくても、お気に入りの古本屋でかなり好きに本を買うこともできる。とにかく1万5000円って額はかなり色んなことのできる額だ。そういうのをもう1度自覚しなきゃ、私は相変わらずフーゾクにお金を使ってしまうことになるだろう。
男は大抵フーゾクとギャンブルに浪費重ねてしまうことが多いが、私の場合、ギャンブルに入れ込むなんて無いし、女の子の癒しのチカラ以上のものがあるなんて信じられない。女の子の肌に触れ、カラダのあっちこっちを舐めまわして自分を取り戻す。馬鹿らしいけど、それ以上のモノはこの世には無い。私の生とは、女の子のあそこをなめて救われる人生なのだ。つまり、彼女たちは売女(バイタ)なんかじゃない。私を救ってくれる女神なのだ。まぁ、こんなこと言ってるうちは又フーゾクに行くんだろうな。きっと。

みんな私と同じドミトリアン?

スタバでロンダリングしてると結構みんな長時間いることに驚かされる。やってる事と言ったら本読んでスマホ触わって、って感じだ。そんなこと家でやった方が寛げると思うのだが。安上がりだし。それは私も同じこと。みんな、家でやったらイイことをわざわざ街中でやっている。でも、それでいいのだ。私のイメージしてる「ドミトリー生活」も結局そういうこと。家でやればいいことをわざわざ街中ですることで、それがちょっとしたエキサイティングな出来事になっているのだ。理由は人によって様々かもしれない。独り住まいで家帰っても寂しいとか、住んでる所の環境が悪いのでスタバの方がまだ寛げるとか、、、、。私の場合は「多拠点」生活が楽しいからって言うことになるのなかな?
ただ、私の場合、寛ぐってのはちょっと難しい。スタバにいても何だか自分が自分の出した脂分で被われてネットリ汚れているように感じる。それにはなんだかゲンナリさせられる。だから、これがキレイなドミトリーだったらシャワーを浴びて共有スペースなんかでゆっくり出来るので、お金があるならそういうロンダリングしたい。

松屋でカレーを喰らう。

始めはデパートの中のイートインで寿司とドイツヒールでも行こうかと思ってた。でも、そうなると、超1000円コースだ。「安上がりをチープシックに楽しむ」というのが当面の課題だ。思い直してかの界隈の安上がりコースを辿ることにした。ファミマの無料コーヒー券もあるし。それでまずは松屋。最廉価の「牛めし」にしようかと思ったが、前からカレー屋のカレーを食べたいのを思い出して、ここはカレー屋ではないけれどカレーにした。(330円)この後ファミマ行って甘いのとコーヒーを頼む予定。こういうチープをこれから楽しみたい、って言うか、これが身分相応だと思うけど。そうしてこの界隈をウロウロしながらブログを書く。ここは私のサードプレイスなのだ。
それにしても、この双撃s、四核(クァッドコア)だっていうのにホント遅い。RAM不足なんだろうが、四核の実感マッタク無い。買った当初はここまで酷くなかったと思う。それでも使い続けてるのは何故?


眠くなってきたので外に出てきた。ファミマで甘いの買って(コーヒーは300円以上買わないといけないので取り止め)、公園のベンチで食べてコレ書いている。思えば私はもう10年以上こういうことを延々とやっている。つまり、パソコン(今はタブレット)に向かって、特に書くことも無いのに何か書いているのだ。自分ではそれを「文書セラピ」と呼んでいる。そういう事が独りで楽しくできるんだから、まぁこれからチープな生活もできるだろう。
あぁ、できたら前に泊まったこの近くのドミトリーに泊まりたいな。予約も考えてサイトをチェックしたら、この時期やたら高くなっている。(いつもの2.5倍くらい?)
今度は寒くなってきたよ。スタバに移ろうかな。勿体ない気がするけど、私の場合街中で「ステーションポップコーン」するのが癒しだし、自己回復なのだ。そこんとこは304円出したい。仕事中だってスタバでタブレットしてるのを夢想するくらいなんだから。

スタバに移ってきた。今度は暑い。スタバの設定温度は北海道の室内基準って感じ。そのスタバでテーブルに着いたら目の前に「たった3泊4日で行ける世界の絶景・秘境ガイド」(宝島社)があった。その中で「ドバイ」もあった。私の癒しの地。また行きたい。ドミトリーのイメージを延長して、世界旅行中のイメージで生活してみたらどうだろう?例えば海外の地に行った時はそこにいること自体が価値があるので、特別高いホテルに泊まろうとか値のはる料理を食べに行こうとかは思わないのでは。そういう感覚でこの地で生活してみたい。

チープな食べ物に目覚める。

あるブログを見てたらお好み焼きというものに俄然興味が湧いてきた。そのブログでは、「カネが無いから野菜が食べられないなんて言ってないで毎晩でもお好み焼きを食べろ」と言っている。ほんとだ、その通り。そのブログが言うように貧乏な時の食事と言うとカップラーメンとかハンバーガー、牛丼屋とかいったデンプン類になる。しかし、「なんでそんなモノを食べるんだ?(もっと安くてヘルシーで野菜も取れる)お好み焼きがあるじゃないか」と言うのだ。
そうだ、言われてみればその通りだ。キャベツを刻んでお好み焼きの粉を水にといたものに混ぜて焼く。そして、マヨネーズとソースで立派なお好み焼きの出来上がりだ。そうだ、そういうものがあるって忘れていた。そういうの食べてたら変なモノたべなくていいし、お金もたまるのでは。

「我が家」というドミトリーで目覚める。

今朝は五時前に目が覚めた。これが京都のドミトリーだったら、すぐに身支度して電車の駅に向かうところだが、今日は「自宅」だ。しかし、以前のようにボンヤリ起きることはない。なんだか、意識はまだ旅の最中で覚醒している。起きた途端、「動く」こと、支度すること、職場に向かうことをもう体が始めている。 「ドミトリー生活」の何がいいのかわかってきた。自分を 「旅行者」とすることで、あるいは自宅を「宿」だと規定することで「澱む」ことが無くなる。「自宅」での「定住」は退屈だ。カラダも意識もなまってしまう。私にとって「ドミトリー生活」とは、シンプルになり、常にオンザムーブするということなのだ。