双撃のブックマーク

個人的なブックマークです。

行動経済学の面白そうな本みつけた。

この「ドミトリー日記」はこれから私の個人的なメモとして使おうかと思っている。今まではブログとして書いてきたつもりだが、同じようなことを書いても某ブログサービスの方が圧倒的にアクセスが多い。(と言ってもしれているが。)それでブログとしての役割はそっちに任せて、このブログサービスは自分の個人的な雑記帳あるいはブログに載せる記事の下書きとして使おうと思った。

はてな」のサービスは結構快適だ。だから使い続けていたいんだけど、アクセスを集めるのは無理みたいなんで、ならば「どうせ誰も見ていない」んだし、好きに書かせてもらう。

ところで面白い本を見つけた。行動経済学という分野の本らしいが、自分たちがいかにトリックの中で自在に操られているか少しは見えてくるようになる。

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150503915/kskblog04-22/

 

今日はゆっくりしたはずなんだけど、気持ちだけは結構忙しい状態になっている。ちょっとパソコン(って言うかMac)に入れ込み過ぎかもしれない。何事もほどほどにってことか。

 

 

中古Macを買い増す。

太古Macを触っていたら、少し新しいマックが欲しくなった。いかん、そういうのはカネの無駄遣いだと自分に言い聞かせているのに、いつの間にかMacBookの中古価格を調べている。中古でもかなり高いのが分かると今度は地元で個人売買するアプリ「ジモティー」でそれなりに良さげなモノを探している。しかも、結構早くにそれなりのモノが見つかった。

ホントに買っちゃっていいのか。今パソコンでやっていること(ネットするだけ)を考えれば2006年の太古機で十分では無いのか。今、そんな酔狂に使うおカネなど無いのではないか。ムダにガジェット増やすのは私の悪い癖の再発では無いのか。全部イエスだ。なのに買ってしまう。ただ「癒しになる」という得体の知れない理由で。アスカさんがドラックに何回もハマってしまうのも無理はない。そういう快楽回路が体の中に出来てしまうと本来中心になるべき「人格」などは全くもって無力だ。快楽回路に脳髄を占拠されて、ただただその「喜び」を求めるようになる。ホントに自分は愚かだと思うか、イヤイヤ、ハマったのがまだパソコンなんかで良かった。これが正真正銘のクスリだったら完全なヤク中だ。とかなんとか考えているうちに先方と連絡を取って取引の開始を打診した。

返信を心待ちにするが、返事は来ない。1週間ほど経っても何も言ってこない。こりゃあ、返事は無いなと思って、改めて「ジモティー」で売り出されたMacを検索。考えていたのは15インチだが、11インチの軽量ノートが安めの値段で売っている。スタバでMacBook開くのはやってみたかったし、なんかスゴく気に入ったので「取引申請」した。そうやって見てると、前に取引申請したMacBookProは今でも売りに出てる。じゃ、なんでリプライ無いんだろう。で、それもリベンジの気分湧いてきて取引申請。

今回はすぐに返信が来た。MacBookエアの方だ。取引可能らしい。そうか、ここまで来たらもう買うしかない。MacBookを買いたい旨を伝える。すると、それから間もなく前は音沙汰の無かったMacBookProほ方も返事が来た。あれ?どうしよう?でも、初めは買う気満々だったし、こいつもイってしまうか!

という感じで2台もの中古Macの直取引をすることになってしまった。

自宅ドミトリーで中古Macを開く。

「ドミトリー」化した自宅で中古のMacbookを開いている。もう11年も前の太古機である。そんなにも古いMacをまだ持っている自分にも驚くし、それが今でも結構使えることに驚く。

これからしばらく、この太古Macbookをメインにして使っていこうと思っている。勿論ドミトリーに泊まるときにも持っていきたい。

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私の持っているMacBookプロは、以下のようなもの。

Model Name: MacBook Pro

  Model Identifier: MacBookPro1,1

  Processor Name: Intel Core Duo

   Processor Speed: 2 GHz

   Memory: 2 GB

   Bus Speed: 667 MHz

というMacBookで、要するに「初代インテルMac」。OSは10.6.8(SnowLeopard)がインストールされている。

こんな太古機を抱えてスタバをウロついたりもした。(結構重い)

 

このブログを書くのに、この初代インテルMacBookを使おうと思っている。

なぜか最近このMacbookを触りたくてしょうがない。そのMacbookを触るためにこのブログを書くといった方が正確か。

何か伝えたいテーマがあれば、それを柱にするのだが、それもない。スタバで開くにはデカ過ぎる、このMacBookを開いてその時書きたいことや書けることを書くことにする。

このMacに触っているとなぜか安堵感を覚える。特に仕事が上手く行ってないとか、人間関係がコジレているとかは無いのだが、なんだかこの現実に違和感を覚えている(みたいだ)し、そこから逃れたいと思っている(節がある)。その現実への違和感を埋めてくれるのがアップルの製品なのだ。別にWindowsでも変わらないだろうと思ってもみるが、やっぱりそれはダメみたいで、Mac、それも中古のMacに触って(大したことも無い)文章を打っていると、なぜかハッピーになれる。私はそれを「文書セラピー」と呼んでいる。つまり、神経を少し病んでいるヒトが精神科医に自分の思いを吐露し、それで精神の安定を取り戻すように、Macに触れて好き勝手な文章(自分の思いなんかを書く訳でもない)を書くだけで、なんだか安心感っていうか、幸福感を得られるのだ。

自分をハッピーにするのにノートパソコン、イジっていれば良いなんて安上がりではないか。しかも、そういう場を提供してくれるブログサービスが巷には溢れている(良い時代になったものだ。)

「ドミトリー」に泊まることが少なくなって書く材料に事欠いてきたので、これからはこっちを題材にして書いてみよう。なんかブログの趣旨が変わってしまった感あるけれども。まあ、いい。

「自宅ドミトリー」でいく。

このブログ趣味始めてからホントおカネ使わなくなった。もうフーゾク行かなくても全然オッケーになってきた。って言うか、女の子とつるむ事も前ほど望んでない。枯れてきたのかな?これでイイのかな?

ブログ読んだり書いたりすることがこんなに満足心を与えてくれるなんて思ってもいなかった。

昨日だって自宅を「ドミトリー」に見立てて、買ってきた缶ビールと晩御飯食べながらテレビ見て至福だった。

こうなるとおカネたまりそう。月に2~3回行ってたフーゾクの分4万円以上が浮くんだから、これは大きい。

しばらくはこの趣味でいく。

「自宅ドミトリー」という感覚。

最近「ドミトリーハウス」に泊まらなくなったと書いたけど、それは自宅でも「ドミトリー」のように暮らせることがわかってきたから。つまり、自宅を自宅と感じるのではなく、誰かさんのお家に間借りして生活させてもらっているという感覚が持てるようになったのだ。そういう意識を持つことで「住む」こととは、一種の緊張関係をもって過ごせるようになる。そして、それが実は快適な生活に至る道だということもわかってきた。

「自宅」ではないので、その辺に寝転がったり好きにダラダラすることはできない。できるのは自分のベッド内だけである。風呂やトイレも他の人の使用も考えて極力清潔さを保てるように使う。服装だってそう。オシャレじゃなくてもいいから、とにかく「清潔」であることを第一条とする。そういう「他所様のトコロにお邪魔している」という感覚が生活をキリッとしたものにしてくれる。

このキリッとした感覚が無いと、「住む」ということが果てしなくだらし無くなり「住む」ことが意識の俎上に乗ることもなくなり、刺激にも喜びにもならない、つまらないものに堕してしまう。

「自宅ドミトリー」というアイデアを持つことで、常に生活からモノを取り除き、身なりを清潔に保ち、要は環境も自らも(総体としての自己も)常にスッキリさせていこうという決心あるいは習慣がついてくる。これはすごくありがたい。この意識こそがヒトを健康に導き、生活も意識もスッキリ快適にしてくれる根本なのだ。

「ドミトリー日記」

これまで「ドミトリー日記」として書いてきたのだが、最近ドミトリーに泊まらなくなったので、このブログに書かなくなった。って言うか、書きたいこと別にブログを立ち上げていたら総計八つにもなってしまったので、文章が分散してしまい、どれもが開店休業っぽくなってしまったのだ。これはイカンと思って半分の四つを削除した。(それでもまだ多過ぎる。)

しかし、昨年の暮れに始めた「ブログ療法」はかなり効果があって、なにかとお金を使っていたフーゾクにも行かなくなった。スタバなんかに陣取ってヒトの書いたブログを読んだり、自分でブログ書いたりしている方がよっぽど楽しくなってきたのだ。

で、なんでドミトリーに住まなくなったのかというと、何件かドミトリーに泊まってドミトリーハウスがどんな所かわかってきたし、そのミニマルぶりも味わうことができたから、前ほどドミトリーに行きたいということは無くなったから。つまり、「家」っていうよりも、私には「パソコンやガジェットでネットして」「シャワー浴びて」「寝る」所があれば、もう十分だということがわかってきたので、自宅にもそういうことしか求めないようになったら、「自己回復」の場所だと称して置いていた趣味のモノや読みもしないたくさんの本を撤去するようになった。するとどうだ、ドミトリーにいかなくても「自宅」や「実家」でも「ドミトリー的な寛ぎや安らぎ」を感じられるようになったのだ。それで最近は行かなくなった。

フーゾクで大枚はたいてお金使わないようになると、生活もイイ意味で地味になってきた。出費と言えば、カフェに入ったりするぐらい。(でも、毎日のように行ってるので、積もり積もれば結構な額かも。)時に新しいマックブックほしいと思うけど、アップル製品って古くても十分触ってて「楽しい」ので今使ってる太古機でしのいで行けると思う。

今の私の理想はドミトリーハウスに住んで、半ばホームレスのように生活し、持ち物はMacBookだけという状態(実際はムリだけど)。ホームレス芸人のナントカさんとか「いばや通信」のブロガーの方ってどんな毎日送っているんだろう?結構ハードだと思うが、楽しそうだ。

ホームレススターなる人々。

さいとうてつおの「悩み多き人よ」を聴きながらこれを書いている。イィな、この曲。

最近「ホームレス」をウリにして逞しく生活しているヒトが流行っている。「いばや通信」の橋爪圭吾さん、一日50円で自分を売る元吉本のホームレス古谷さんとか。ホームレスと言ってもネットを使って自分のミニマムな状況をウリに出して、それを面白がってくれるヒトや話を聞きたがってくれるヒトのネットワークに身を委ねて「他力」で生きるというもの。確かにおもしろい。そんなことが可能なんだろうかって思う。でも、どうやら結構楽しくやってるみたいだし、ちょっと話でも聞かせてもらうか、って感じになってくる。潜在的に自分もそういうコトをしてみたいというヒトの代理でダイナミックに生きている感じかな。

自分はそこまで出来ないけど、「つもり」ホームレスになって生活してみたらどんな具合だろう。

前述のような「ホームレス」スターの人々の必需品って結局スマホとかタブレットとかネットに繋がる手段ではないのか。常に自分を支えてくれる潜在的なファンたちに発信し続けていなきゃなんないんだから、ネットと繋がる手段だけはリストラ出来ないと思う。面白いなぁ、やっぱり。家よりも仕事よりもネットが自分のライフラインとして重要なんだから。